zebrano blog

月: 2021年3月

ボ〜っと生きてる場合じゃなかった

珍しく夢で目覚めた。

認知症の母に付き添って宇都宮まで在来線で行くのだが行き先がはっきりしない。
途中で(多分大宮なのだろうが)急行に乗り換えて高崎方面に行こうとする。列車の中は窓際の2人がけと4人がけのテーブル席が2つあり、1号車なので喫煙車両だ。なんとか対面で席を確保するが、前に人の遺した食事等が残っている。隣はクラッシックなフランス人男女だ。
乗換駅の駅事務所にて。
一体どこに向かっているのかを制服の駅員が問い詰めると、インドのビリヤニという人に会いに行くと言い出した。困っているので多額の寄付をするのだという。それで出かける前にパスポートとか言っていたのか、、、
そしてなんと駅員が提示したのは、関係書類一式の遺失物だった!
以前にも一人でここまで来て、挙句の果て重要書類を忘れて帰っていたのか、、、なんてことだ。
今はコロナで渡航できないし、無理に行ったとしても2週間の隔離が往復アルから1ヶ月は監禁生活になる、という話をしても、私は大丈夫だからの一点張り。
ここで目覚める。
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話をよく確認しなかったことも悪いが、法的にこのような状態で財産を守れるのか不安になる。国際的な慈善団体を語った詐欺だったらどうするのだ?
家族信託や後見人制度、生前贈与について検討をすすめることとしよう。





「線分」へのインプット必要

心の叫びを楽曲や工芸品で表現したいのだが、満ち足りすぎて叫ぶ内容が枯渇。自分への刺激のインプットが少ないと、情熱が燃えない。
平和で何も起こらない。それが幸福なのかというと違う。
自由は真空のように虚しく、なにもない。

ウインドサーフィンで沖に出たときに感じたことに近い。海に出るまでは最高にワクワクしていたのに、いざ出てみると、ひとり孤独で、寂しく、やることがない。ただ無為に移動するだけ。人もモノも運べず、やくたたずのデクノボウである。

青春を人生の最後に持ってきたいという人もいたが、それはどうかな?
金と時間の軸で考えると、どちらにしろ噛み合わない気がする。
しかしそれは社会に敢えてそう仕組まれているのだろう。
誰に何のメリットがあるのだろうか?国の教育水準を上げるとか?

家制度はもはやないわけだが、生まれて死ぬという線分の中で個が刹那を生きるにあたり、先祖や子孫との特別な繋がり、という精神的な絆を神のごとく信じてきたのだろう。生物的には別の個体であり、その一生はやはり線分だし、精神や幽霊が残留思念として確認されたことはないのだが。

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